瀬名 氏貞(せな うじさだ)は、戦国時代の武将。遠江今川氏の流れを汲む瀬名氏の2代当主。
生涯
はじめ遠江国二俣城に住した。のちに駿河国庵原郡瀬名村(現:静岡県静岡市葵区瀬名)に住んだ。
栴岳承芳(今川義元)と玄広恵探が争った花倉の乱では、承芳方に属した。
『寛政重修諸家譜』は、天文7年(1538年)3月16日没、享年42としるす。
系譜
『寛政重修諸家譜』の「瀬名」系譜は3男1女を載せる。嫡男の氏俊、次男の義広(築山殿の父)、氏次(うじつぐ、勘十郎)、女子(武田左衛門尉某室)である。
ただし、天文20年(1551年)頃と作成年代が絞ることが可能な 『土佐国蠧簡集残篇』所収「今川系図」からは氏次の存在は確認できない(瀬名元世のように庶流出身の人物が同時代史料に登場するため、同族の可能性はある)。また、小鹿安房守(範満の甥)の子である又五郎もしくはその子・民部少輔の妻が氏貞の娘と推定されている。
脚注
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』巻第九十五
![戦国瀬名氏紀行 瀬名氏第二代当主瀬名氏貞公(せな うじさだ)[墓所・松寿院跡地]〔駿河・瀬名〕日本の戦国時代の武将。今川氏一門瀬名一秀長男で](https://i.ytimg.com/vi/fa4tJW6BZu0/hqdefault.jpg)


