形原藩(かたのはらはん、かたはらはん)は、三河国宝飯郡形原(現在の愛知県蒲郡市形原町)を居所として、江戸時代初期にごく短期間存在した藩。関ヶ原の戦いののち、旧領に復帰して5000石を領していた形原松平家が、1618年に関東地方で加増を受けて大名に列した。ただし、翌1619年には摂津高槻藩に移されて廃藩となった。

歴史

前史

形原松平家は松平氏の一族で、桶狭間の戦いの時点の当主は松平家広である。家広の跡を継いだ松平家忠(又七郎、紀伊守)は天正10年(1582年)に36歳で死去し、子の松平家信が家督を継いだが、家信が成長するまでの間、家忠の弟の松平家房が軍代を務めた。

天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移されると、家信もこれに従って移転した。関東に移る直前の松平家信の領分は2250石とされるが、関東移転後は上総国五井(現在の千葉県市原市五井)で5000石を領した。

形原松平家は水軍と関わった家であり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、西軍についた九鬼嘉隆の押さえとして、小笠原安元・小笠原広勝(ともに幡豆小笠原家)・千賀重親(師崎旧領主)とともに知多半島の師崎に派遣された。

関ヶ原の合戦後

形原松平家の復領

関ケ原の合戦後の慶長6年(1601年)、家信は上総五井に代わり、旧領である三河形原で5000石を与えられた。同年2月には領地入りの暇を得ている。このときの家信の領地は、宝飯郡形原村など13か村であり、かつての形原城を陣屋とした。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際、家信は当初駿府の留守を命じられたものの、家康に呼び出されて大坂に参陣した。翌慶長20年/元和元年(1615年)の大坂夏の陣の際には病気であり、嫡男の松平康信(15歳)を陣代として従軍させた。その後しばらく、家信は形原で療養した。

立藩から廃藩まで

元和4年(1618年)9月、家信は御留守居に就任するとともに、安房国長狭郡内において5000石を加増されて1万石の大名となり、形原藩を立藩した。『角川日本地名大辞典』によれば、藩政は嫡男の康信と、城代の松平家房に委ねられていたという。

元和5年(1619年)9月、徳川秀忠が上洛した際、家信・康信父子は伏見城に召し出され、領地を摂津国に移した上で2万石を与える(うち5000石は康信の知行とする)こととされた。これにより松平家信は高槻藩に加増転封され、形原藩は廃藩となった。

歴代藩主

松平(形原)家

譜代。1万石。

  1. 家信(いえのぶ)

領地

分布と変遷

形原家は三河国に13か村を有し、元和4年(1618年)に安房国内で5000石を加増された。

  • 三河国
    • 宝飯郡のうち - 12か村
      • 形原村、西浦村、平地村、戸金村、一色村、鹿島村、拾石村、竹谷村、上ノ郷村、柏原村、荒井村、荻村
    • 幡豆郡のうち
      • 逆川村
  • 安房国
    • 長狭郡のうち
      • 東条村、横須賀村、八色村

地理

形原

形原は『和名抄』にも見られる地名で、古代の形原郷は現在の蒲郡市形原町周辺一帯と比定されている。室町時代、寛正6年(1465年)の額田郡一揆以降に松平氏一族が進出し、形原松平家が形成された。江戸時代に編纂された『寛政譜』等の系譜によれば、松平信光の四男・松平与副が中山郷から形原に移ったと記され、与副を初代として家広は4代目にあたる。ただし、松平氏の形原進出の状況や系譜関係には諸説ある。

元和5年(1619年)の松平家信の転出により、三河国の13か村は収公され、同年末には松平清直(長沢松平家)に与えられた。松平清直は形原に陣屋を置く5000石の交代寄合となったが、延宝元年(1673年)に3代目の松平信実が無嗣のまま没し断絶。延宝8年(1680年)、5000石の旗本であった松平乗親(大給松平家分家)の知行地となるが、正徳2年(1712年)に収公。その後、享保年間には旗本3家の相給となる。そのうちの1人、巨勢至信は徳川吉宗の従兄弟(生母浄円院の甥)で、加増を重ねて享保17年(1732年)には5000石に達し、形原に陣屋を置いた。

江戸時代、形原村には歴代領主が陣屋を置いたが、形原松平家・長沢松平家・巨勢家の陣屋はそれぞれ別の地点であり、『蒲郡の諸城』などの文献では「形原陣屋」に以下のように記号を付して区別している。

  • 形原陣屋A(形原町御獄) - 巨勢家の陣屋。別名「形原役所」。
  • 形原陣屋B(形原町西御屋敷) - 松平清直の陣屋。
  • 形原陣屋C(形原町東古城) - 形原松平家の陣屋。別名「稲生城」。跡地には古城稲荷神社が立つ。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 二木謙一監修、工藤寛正編『藩と城下町の事典』東京堂出版、2004年。 
  • 村岡幹生「大草・岡崎松平家の光重・貞光父子と初期の形原松平家」『愛知県史研究』第12号、2008年。doi:10.24707/aichikenshikenkyu.12.0_47。 

関連項目

  • 五井藩 - 家信が形原に復帰する前に知行していた上総国五井に、のちに成立した藩
  • 深溝藩 - 松平家の支流(十八松平)が発祥地で大名となった、もう一つの事例

亀岡市文化資料館『形原松平展~譜代大名 丹波亀山藩~』 一般財団法人太陽コレクション

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