吉備上道采女 大海(きびのかみつみち の うねめ おおしあま、生没年不詳)は、日本古代の吉備上道の豪族の女。紀小弓の後妻。
記録
『日本書紀』巻第十四によると、雄略天皇9年(465年)、天皇は新羅征伐のために紀小弓宿禰(き の おゆみ の すくね)、蘇我韓子(そが の からこ の すくね)大伴談連(おおとも の かたり の むらじ)、小鹿火宿禰(おかひ の すくね)らを派遣している。
その際に、妻をなくしたばかりの紀小弓は大連の大伴室屋(おおとも の むろや)を通じて、こう天皇に訴えた。
と申し上げた。この奏上を聞いた天皇は同情して、吉備上道采女大海を小弓に賜り、付き添って世話をすることにさせた。
ところが、現地で小弓は病死してしまった。
小弓の未亡人となってしまった大海は喪に服すべく帰国し、大伴室屋大連にこう申し上げた
これを聞いた天皇は以下のような詔を出した。
すなわち、小弓の半島での功績を賞讃し、葬礼のための役人を遣わし、さらに小弓と大伴氏の勢力地がたまたま同じ国で、隣り合っている縁で、小弓の墓を両者の接点である田身輪邑(たむわのむら、和泉国日根郡淡輪村、現在の大阪府泉南郡岬町淡輪)につくるように指示したのである。
大海は喜んで、お礼として韓奴(からのやっこ)の「 室(むろ)・兄麻呂(えまろ)・弟麻呂(おとまろ)・御倉(みくら)・小倉(おくら)・針(はり)」の「六口」(むゆたり)を大連に送った。これが、吉備上道の蚊嶋田邑(かしまだのむら)の家人部(やけひとべ)となった、という。
この「家人」とは豪族などに隷属して駆使される賤民に近い部曲のことで、天智天皇3年2月(664年)にはこれに類する「家部」が設置されている。「家部」は奈良時代に西国各地に分布し、備前国にも多く設置されている。
わずか2ヶ月ほどの夫婦生活であったが、大海と小弓との間には、深い愛情に満ちた日々があったことが想像される。
『和泉志』によると、吉備上道大海の墓は淡輪村の南にあり、「小陵」と称されている、という。
なお、『万葉集』巻第二217に柿本朝臣人麻呂が「吉備津采女」(きびのつ の うねめ)が死んだ時に作った長歌、および反歌が掲載されているが、後世の別人である。
脚注
参考文献
- 『日本書紀』(三)・(五)、岩波文庫、1994年、1995年
- 『日本書紀』全現代語訳(上)(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『天皇と古代王権』、井上光貞:著、吉村武彦:編、岩波現代文庫、2000年
- 『萬葉集(一)』完訳日本の古典2、小学館、1982年
関連項目
- 雄略天皇
- 羅済同盟
- 日羅関係
- 倭・倭人関連の朝鮮文献
- 倭・倭人関連の中国文献
- 宋書
- 南斉書
- 任那日本府



